« 鵜飼保雄・大澤良編著「品種改良の世界史 作物編」悠書館 | ジョージ・バーナード・ショー(George Bernard Shaw, 1856年7月26日 - 1950年11月2日)は、アイルランドの文学者、脚本家、劇作家、評論家、政治家、教育家、ジャーナリスト。, ヴィクトリア朝時代から近代にかけて、イギリスやアメリカ合衆国など英語圏の国々で多様な功績を残した才人として知られている。, バーナード・ショーの功績の中でも、特に文学者と教育家としての活躍が有名である。イギリス近代演劇の確立者として精力的に作品を書き続け、94歳で没するまでに53本もの戯曲を残し、「他に類を見ない風刺に満ち、理想性と人間性を描いた作品を送り出した」として1925年にノーベル文学賞を受賞した。アイルランド人のノーベル文学賞受賞者としては、文学者ウィリアム・バトラー・イェイツに続いて2人目となった。映画文化の発展にも貢献し、『ピグマリオン』はアメリカのハリウッドで映画化されて第11回アカデミー賞の脚色賞を授与された。教育家としては自身は大学などの高等教育を受けなかったが、社会科学の発展を目指してロンドン大学内の教育機関ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)の創設に尽力し、経済学の発展に重要な足跡を残した。, 政治家としては一貫して進歩主義 (政治)に属し、穏健な社会主義(社会民主主義)を掲げ、後に労働党 (イギリス)の前身となるフェビアン協会の会員として行動した。労働者を搾取する近代イギリスの行き過ぎた資本主義や退廃的な貴族趣味を嫌い、男女平等、土地改革、労働者保護などの社会改革や菜食主義に代表される健康的な食生活を信念としていた。フェビアン協会の為に数多くの文章や演説を通じた政治運動を展開したが、表立って権力を握る事は嫌っており選挙への立候補については幾度も固辞している。例外的にロンドンメトロポリタン行政区議会からセント・パンクラス地区 (en) 代表の区議会議員に選出された際には引き受けているが、フェビアン協会も含めたどの党や政治団体にも所属しない無所属議員として活動している。晩年には文学、教育、政治などでの業績を讃えてイギリス王室からナイト称号の授与が提案されたが、これを拒否している。, 芸術家として、またリベラリストとして自由主義や民主主義を基本的に肯定したが、その欠点である衆愚政治や退廃に無批判ではなく、ファシズムやソ連型社会主義など独裁制や全体主義に理解を示す発言を行う場合もあった[1]。人間社会に対する厭世主義から「無価値な人間の処分」をしばしば唱え、その観点から人種主義や優生学も肯定していた。後にイギリスが第二次世界大戦で枢軸国陣営と戦い、冷戦ではアメリカ合衆国に協力してソビエト連邦と対峙する中、こうした主張が批判される場合もあった。, 持論である菜食主義による健康な生活もあってか長命を保ち、90歳を超えても健康的な生活を謳歌していた。その死も病や老いではなく、自宅で庭の手入れをしていて梯子から転落して骨折した際、受けた手術の経過が悪く腎臓浮腫を患ったためであった。, 1950年11月1日に意識不明となり[2]、翌2日に死亡。94歳没。遺灰は遺言により妻の遺灰と共に自宅の庭園に埋葬された。, ダブリンに生まれる。一族は元はスコットランド貴族で、17世紀にアイルランドへ移住して来たピューリタンの家柄であり、父ジョージ・カー・ショーは法務省の役人をやめて穀物卸売商を営んでおり、母ルシンダ・エリザベスは地方の紳士階級の出身で勝ち気で芸術を愛好する女性だった。姉のエリノア・アグネスは20歳で夭逝し、ルシンダ・フランシスは音楽家となった。, 叔父からラテン語の手ほどきを受けて後、ダブリンのウェズリー・カレッジ(英語版)に入学する。翌年に地方の私立学校へ移り、1869年にはダブリンの商人階級のカトリック子弟のための中央模範小学校に通う。1871年までの2年間はダブリン英語科学商業学校で送った。この間はアイルランド国立美術館で名画に親しむことが多く、母や姉たちと音楽教師とともに暮らし、音楽に囲まれて多くの名曲を暗唱するようになっていた。, 1871年に学校を卒業してダブリンの土地仲介業者のもとで働き、有能さを発揮した。ロンドンで音楽教師として働き始めていた母と姉たちを追って1876年にロンドンへ出たが、母と親しい音楽評論家のゴーストライターなどの文筆による稼ぎはわずかで、父からの仕送りと母の収入に頼って生活しながら、大英博物館や国民美術館に通って知識を広めた。1882年にヘンリー・ジョージの講演を聴いたのがきっかけで社会主義に傾倒し、1884年にフェビアン協会が設立されるとただちに入会して、シドニー・ウェッブ夫妻らとともに実行委員、パンフレット作成、講演などに活躍した。, 一方で、小説の執筆を1879年から続けていたが、認められることはなかった。1884年に社会主義雑誌『Today』が発刊されると「非社会的社会主義者」 (An Unsocial Socialist) 、「カシュル・バイロンの職業」(Cashel Byron's Profession) が連載され、1887年に宣伝雑誌『Our Corner』に「不合理の縁」(The Irratinal Knot) 、「芸術家の恋」(Love Among the Artist) が掲載され、ウィリアム・アーチャー、スティーヴンソン、ウィリアム・モリスなどに才能を認められた。, そのウィリアム・アーチャーの紹介で1885年から新聞『ベル・メル・ガゼット』(Pall Mall Gazette) で書評、翌年に『世界』(World) 誌で美術批評を1889年まで匿名で執筆する。1888年から『スタア』紙で音楽批評を、コルノ・ディ・バセット (Corno di Bassetto) という筆名で担当する。1895年から1898年に、フランク・ハリス編集の『土曜評論(Saturday Review)』で劇評を「GBS」の署名で発表。この頃、『イプセン主義精髄』『完全ワーグナー主義者』『芸術の健全性』などの評論も執筆した。, 当時はイギリスの近代劇が紹介され始めており、J.T.グレイン (J. T. Grein) による独立劇場 (Independent theatre) を支援していたウィリアム・アーチャーとショーは、合作した戯曲『やもめの家』を提供し、1892年に上演された。, 続いて1899年に舞台協会 (Stage Society) に『分からぬものですよ』を提供する。ロイヤル・コート劇場 (Royal Court Theatre) で1904年から1907年にかけてのグランヴィル=バーカーによる新劇運動では、上演された32作品のうち11篇が『分からぬものですよ』『人と超人』などショーが提供したものだった。, 創作活動に加えて、フェビアン協会での活動による多忙のために健康を害したが、ファビアン協会にいたシャーロット・ペイン=タウンセンド (Charlotte Payne-Townshend) の献身により回復し、1898年に結婚する。, 1914年にウェスト・エンドで初めて興行的な成功を収める。1925年にノーベル文学賞を受賞する。初めは固辞していたが、賞金を寄付するという条件で受賞することになる。, 晩年はエイオット・セント・ロレンスに移り住む。1943年に妻シャーロットが死去する。1950年に自宅庭園で樹木の手入れ中に転んで足を骨折して手術するが、帰宅後に腎臓浮腫が悪化して死去した。94歳没。遺言により、ショーと妻シャーロットの遺灰は混ぜ合わされ、庭園の小道に撒き散らされた。, アレクサンダー・テクニーク創始者のフレデリック・マサイアス・アレクサンダーの有力な支持者でもあった。, カナダのナイアガラ・オン・ザ・レイクでは、毎年数ヶ月にわたって、ショーとその同時代の劇作家の作品を上演するショー・フェスティバルが開催され、世界各国から人々が集まっている。, フェビアン協会に属する社会主義者であり、社会主義運動に深く関わる。文学者の枠を超えた反骨の知識人として積極的に発言(皮肉な警世家としても知られる)、長い生涯にわたって尊敬を集める。しかし、1930年代に大恐慌を受け資本主義国が軒並み不況に苦しむ中、ソビエト連邦はその影響を受けずに高い経済成長を達成したことを知り、「失業も階級もない理想の国家」と評したが、ショーとウェッブ夫妻のソビエト支持は保守層から非難を受けた。, ショーは菜食主義者であった。85歳の時、「私は現在85歳だが、これまでと同じように元気に仕事をしている。もうかなり長く生きたので、そろそろ死のうかと思っているのだが、なかなか死ねない。ビーフステーキを食べれば、ひと思いに死ねると思うのだが、私には動物の死体を食べるような趣味はない。私は自分が永遠に生きるのではないかと思うと、空恐ろしい気分になる。これが菜食主義の唯一の欠点である」と語ったことがあった。ちなみに彼は94歳まで健在であった。, ショーは1895年以降に多くの劇評を書いたが、特に有名なのがシェイクスピアの劇についての評論である。当時はシェイクスピアを偶像化するような風潮があり、ショーはこれを「Bardolatry」と呼んで揶揄した。また、アクター・マネージャーによる上演が主流であったため、作品の大胆な改変がしばしば行われていたが、これも激しく非難した。一見矛盾するかに見える2つの行動だが、どちらもシェイクスピアを熟読し、心から愛するゆえのことであった。, ショーのコメントは毒舌と言われることもあり、しばしば誤解されているが、彼がシェイクスピアにいかに精通しているかを知れば、それが単なる毒舌ではないことは分かるはずである。ショーはシェイクスピアを超えるような劇を書きたいとも熱望していた。『シーザーとクレオパトラ』は、『ジュリアス・シーザー』に対抗して書いたものだが、『ピグマリオン』は『じゃじゃ馬ならし』に対抗したものではないかという説もある。また短編戯曲『ソネットの黒婦人』、人形劇『シェイクス対シェブ』などもある。, ショーは政治的シンクレティズムを志向するベニート・ムッソリーニに共感を覚えており、「社会主義は愛するが社会主義者は軽蔑する」とムッソリーニが語ったことにも同感していた。早い段階でファシズムの本質が反資本主義であることも見抜き、反ファシズム運動を求める動きには加わらず、教条的な社会主義者を「新しい教会(第三インターナショナル)を信じる人々」と批判している[3]。また『デイリー・ニュース』紙に寄稿した記事では、彼らの政策はイギリス労働党よりも明確に反資本主義的であり、そのことを考えれば「ムッソリーニを弱体化させることは私の仕事でもなければ、いかなる社会主義者の仕事でもない」と指摘している[3]。記事に対して、反ファシズム運動の立役者であったオーストリアの心理学者アルフレッド・アドラーは猛烈な抗議を行った。アドラーの意見は「ファシストが暴力で政権を得た」という批判に集約されたが、ショーは「コミュニストたちも銃を撃ち、爆弾を投下することを躊躇わなかったではないか」と返し、同じ手段を用いながら革命に失敗したイタリア社会党の無能力さを指摘している[4]。, 憤慨したアドラーがショーからの反論を公開すると、今度はイタリアからの亡命者で政治学者のガエターノ・サルヴェミーニが「ショーがイタリア旅行(ショーはストレーザの別荘で静養する習慣があった)で筋金入りのファシストにプロパガンダを吹き込まれている」と中傷した。ショーはサルヴェミーニに、私的な旅行であったことから特にファシスト政権側から連絡は受けておらず、「筋金入りのファシスト」にも会ったことはないと返答している[5]。また「ファシストが暴力革命に成功したのは軍や貴族、企業の支援があったからだ」との意見には、社会主義者が学ぶべきなのは反資本主義的なムッソリーニが「なぜ支援を取り付けられたのか」ではないのかと返している。中傷と理想論を繰り返すばかりのサルヴェミーニについて「政治的に見込みがないことを自ら暴露した」とし、「(彼の手紙は)ムッソリーニが自由を腐敗しつつある死体だと表現するようにさせた理由を説明している」と酷評している[5]。, ショーはムッソリーニを「ナポレオンほどの威信はないが、フランスのためにナポレオンが行ったことをイタリアのためにやっている」と好意的に評している[4]。, シュリ・プリュドム (1901)  - テオドール・モムゼン (1902)  - ビョルンスティエルネ・ビョルンソン (1903)  - フレデリック・ミストラル / ホセ・エチェガライ・イ・アイサギレ (1904)  - ヘンリク・シェンキェヴィチ (1905)  - ジョズエ・カルドゥッチ (1906)  - ラドヤード・キップリング (1907)  - ルドルフ・クリストフ・オイケン (1908)  - セルマ・ラーゲルレーヴ (1909)  - パウル・フォン・ハイゼ (1910)  - モーリス・メーテルリンク (1911)  - ゲアハルト・ハウプトマン (1912)  - ラビンドラナート・タゴール (1913)  - ロマン・ロラン (1915)  - ヴェルネル・フォン・ヘイデンスタム (1916)  - カール・ギェレルプ / ヘンリク・ポントピダン (1917)  - カール・シュピッテラー (1919)  - クヌート・ハムスン (1920)  - アナトール・フランス (1921)  - ハシント・ベナベンテ (1922)  - ウィリアム・バトラー・イェイツ (1923)  - ヴワディスワフ・レイモント (1924)  - ジョージ・バーナード・ショー (1925), https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=ジョージ・バーナード・ショー&oldid=76892294, 『ショー名作集』鳴海四郎、中川龍一、貴志哲雄、倉橋健、小田島雄志、升本匡彦訳 白水社 1966年. 日本語版は好きだったのに。 ・ 海外の名無しさん イノスケの声は日本語でもガラガラ声だからw ・ 海外の名無しさん イノスケのキュートさを感じられるといいな。 ・ 海外の名無しさん イノスケが英語を話そうとしてる本物のイノシシみたいだよ。 日本語訳 - 市川又彦訳 岩波書店 1929年、喜志哲雄訳 白水社 1993年。 John Bull's Other Island 1904年、1907年; How He Lied to Her Husband 1904年、1905年 『バーバラ少佐』 Major Barbara 1905年、1905年、人気上演作品の一つであり、映画化もされた。日本語訳あり トップページ | 石津朋之・永末聡・塚本勝也編著「戦略原論 軍事と平和のグランド・ストラテジー」日本経済新聞出版社 », バーバラ・マクリントックの比類のない研究できわだっている点の一つは、研究のすべてが自分で手を下した実験によってなりたっていることである。一切の手助けなしに、尽きることのないエネルギー、科学に対する全き献身、独創性、巧妙な工夫そして鋭く鋭敏な頭脳によって、彼女は細胞遺伝学の歴史において比較するもののない一連の重要な発見をおこなってきた。, トウモロコシの研究を通したトランスポゾンの発見により、1983年にノーベル生理学・医学賞を受賞したバーバラ・マクリントックの評伝。その能力と実績は同僚に高く評価されながらも、様々な理由で彼女は孤独な研究生活を送った。ワトソンとクリックのDNAの発見に代表される生物学の激動期を背景に、孤高の天才細胞遺伝学者の生涯を描く。, 原書は A Feeling For The Organism by Evelyn Fox Keller, 1983。日本語訳は1987年11月15日初版、私が読んだのは1988年3月25日の四刷。思わぬ人気に慌てて増刷を重ねた様子がうかがえる。A5ハードカバーで縦一段組み、約317頁。9ポイント44字×17行×317頁=237,116字、400字詰め原稿用紙で約593枚。, 文章は…人間関係を描く部分は普通に読み下せるんだが、細胞学・遺伝学の部分はイマイチ。遺伝学の基礎的な内容が多い前半は図解を入れたりして読者の理解を助けようとしているんだが、マクリントックの独自性が発揮される後半に入ると、直訳っぽい文章が増え、理解するには数回読み返す必要がある。トランスポゾンについて学びたければ、他の本に当る方がいい。, はじめに第一章 マクリントックと遺伝学の歩み第二章 みちたりた孤独第三章 科学者としての出発第四章 女性にとっての仕事第五章 ミズーリ大学時代第六章 正統性の内と外第七章 コールド・スプリング・ハーバー第八章 転移する遺伝子第九章 通じる言葉と通じない言葉第十章 分子遺伝学第十一章 転移の再発見第十二章 生物との共生感 用語集 訳者あとがき, ほぼ物語は時系列順に進む。読む際は、彼女が研究生活に入った時代は、染色体は見つかっていてもDNAは未発見だって事を認識しておこう。それがわかっていると、彼女の研究がいかに時代に先んじており、かつ当時の「遺伝学の常識」に反していたか、実感できるだろう。, この本は、多様な側面を併せ持っている。読む人の視点によって、それぞれ違った物語が展開されるだろう。, ひとつは、とても幸せなオタクの物語だ。世間の人とは大きく異なる価値観を持ちながら、大好きな事を仕事に得て、充実した人生を送った人の物語だ。, ひとつは、あまりに先進的でありすぎるが故に世間に受け入れられなかった仮説が、どのように受け入れられていくか、その過程を綴った物語だ。, ひとつは、女性であるが故に相応しい地位を与えられず、それでもくじけずに己の生き方を貫き通した、強い意志を持った女性の物語だ。, ひとつは、革新が激しい科学の世界で、古典的と思われていた手法や仮説が、全く新しい概念の基礎となって蘇える物語だ。, そして、革新的な科学の発見がいかになされるかという物語でもあり、そんな発見をする人はどんな人かという物語であり、染色体からDNAを経てトランスポゾンへ至る激動の遺伝学の物語でもある。私が読み取ったのはこの程度だけど、恐らくあなたは、ここに挙げたのとは異なる物語を見出すだろう。, バーバラ・マクリントック、細胞遺伝学者、1902年生まれ。幼い頃はお転婆で、男の子と遊ぶことが多かった。彼女の両親は鷹揚な人で、「両親のやり方はほとんどの場合、子供たちの好みを最優先するものだった。もし、バーバラが学校に行きたいと思わなければ行かなくてもよく、(略)一学期以上もの長い休みを取ることもままあった」。, そして一番最初に受けた講義で私はもう有頂天になってしまいました。それは動物学の講義で、嬉しさのあまりまったく我を忘れてしまうほどでした。その時私は、自分で本当にやりたかったことをしていたのであって、そういう喜びは大学在学中ずっと失うことはありませんでした。, 私は地質学をとっていたのですが、これは大好きな科目でした。(略)私は試験を受けるのが待ちきれなかったのです。(略)とても気がせいて名前を書き込むのが煩わしく思われたのです。というのもどんな質問かすぐに見たかったからです。私はいきなり答えを書き始めました(略)そしていざ自分の名前を書こうとしてみると、なんと思い出せないのです。, 没入すると自分の名前すら忘れるとは。こういった集中力と、目的に向かってまっしぐらに進む性格は、時として奇行と人の目に映る。研究室の鍵を忘れ壁をよじ登って進入するとか、そりゃ無茶やがな。こういう性格が災いしたのか、当時の女性科学者の地位が低かったのか、若い頃の彼女の地位はなかなか安定しない。このあたりのジプシーぶりは切ないけど、彼女のトウモロコシ畑を残すコーネル大学の懐の深さも相当なもの。まあ、あまし教師に向かない人ではあったらしい。コーネル大学で同僚だったマーカス・ローズ曰く。, 「バーバラは頭の悪い人間とつき合うことができなかったのです――彼女はとにかく頭がよかったので」, 彼女の生涯を概要だけ見ると、長く雌伏を強いられた天才、みたいに見えるけど、実際にコレを読むと、案外と楽しみながら研究生活を続けた人のように見える。晩年は神秘主義に傾倒したような発言が多いようだが、その言葉は本当に「通じて」いるのやら。ええ、当然、私も理解できてるとは思っていません。.